地震!!
一昨日ワクチン3回目を打ち昨日は昼過ぎまでなんともなかったのですが、昼過ぎてから体調がダウン。
寝ていました。
寝る前に不思議と慶喜公像を見てて地震来たら嫌だからとバラバラに分けて置いておきました。
虫の知らせなんでしょうか?
1度目の揺れで作品部屋に行き作品を抑えて、高いところにあった義経公の像を下に下ろしてからの2度目の大きい揺れ。
作品は殆ど無事でした。
が!
家康公のしかみ像がいつも椅子から外れてしまい倒れるのです。
今回もやっぱり。
で、急遽椅子と像をガッチリと組み合う様に最近良く使う強力なマグネットを埋め込みました。
といっても、けがいて彫ってはめ込むという作業ですので1時間掛からないくらい。
お陰でガッチリ動かなくなりました。
ダボや芯棒で作品は固定されてますが、最近協力磁石を使うことが多くなりました。
とても良い。
値段も安い。
色々考えて制作していきます。
そうそう、今朝太刀の鮫は彫り終わり完成しました。
しかし、身体が痛い……
ほぼ完成。
2年半掛かった慶喜公の像がほぼ彫り終わりました。
本当は三年前の個展で発表するはずが、かなり難しくなかなかカタチに出来ませんでした。
草摺8枚彫りましたが、はじめは倍の大きさで彫ってしまい彫り直し等と兎に角バランスが難しく、根気も削がれなかなか進みませんでした。
まずは写真を。
笠のヤクの毛も彫りました。
まだ喉輪の紐が終わってないです(笑
この両方の禁門の変の時の格好を基準に彫りました。
大河の黒い陣羽織が好きです。
色々とオミットしてるところもありますが…
これ個展で出したかったですが、まだお預けです。
今回はこの作品を発展させて夏に新作を出そうかと思っています。
前にも書きましたが、後ろの桃太郎がこの慶喜公を制作するきっかけになりました。
オマージュとして制作してます。
まだ、色塗りまでは時間掛かりますが(笑
そう!
籠手の鎖も彫ってあります。
両手で計2週間。1日16時間ほど彫ってました。
兎に角疲れました。
そして、今気付きましたが、脇差の柄の鮫は彫りましたが、太刀の柄の鮫を彫ってない………
制作に戻ります。
ではでは。
完成間近。
慶喜公の像が完成間近。
この像実は20年の正月からのサザコーヒーでの個展で出す予定でした。
でも、何故か作る事が出来ず、終わりませんでした。
結局2年半近くかけて彫り出すことになります。
この座像も写真をかなり見て制作しました。
本当は立像と共に出したかったのですがね…
で。
これが完成寸前の立像です。
と、こんな感じ草摺や佩楯等彫るのが難しく時間が掛かりました。
兎に角根気が続かずで……
それとバランスが難しく、何度も彫り直しています。
平田郷陽さんの桃太郎のオマージュで、そこにジョジョの奇妙な冒険の空条承太郎の様な指を指すポーズが頭の中にあります。
こんな佇まいの作品はなかなか作れません。
兎に角最高の桃太郎。
今桃太郎を作ろうと思っています。
と、慶喜公ですが、
こちらの鎧と笠は大河ドラマと実物のものを合わせて彫りました。
背景は禁門の変の時をイメージしていますので、
浮世絵にもありますが、実戦時の姿を作りました。
今は籠手の鎖を彫り始めています。
ただただ難しく面倒な作業です。
ではでは。
三月。
ウクライナで戦争が始まり、ニューヨークで知り合ったロシア系の友人はFacebookにウクライ支持を出しているのをみる。
三月は先の大戦の東京大空襲の日が近く、曽祖母が10日に亡くなってるので寂しく思います。
曽祖母も九州と東京の祖父も生まれた時には亡くなっていたので、会った事がありませんが、九州の祖父の写真(多分出征時かな?)を工房の自分の制作机の後ろに飾ってあります。
いつも見ていてくれる様にと。
そんな訳で宮崎の祖父の話。
私が生まれた時祖父忠輔さんにそっくりと言われたと母が言ってましたが、祖父の写真を見る限り祖父は苦味走ったいい男なので似てないかな?(笑
それに忠輔さんは「仏の忠輔さん」と言われるくらいの優しい人で怒られた記憶が無いと母が言ってました。
私はどちらか言うと性格は江戸金子の血と宮崎の祖母の血が強いのかな?
と(笑
忠輔さんのお嫁さんの(祖母ね)かほるさんとは町で見かけた祖父が一目惚れしたとの事で、
結婚前に祖父が祖母の家は大きな旅館でそこに行って断られた話や、色々な人が祖母の両親に忠輔さんの話をして認めてもらったと聞いています。
祖母は気の強い人だと母は言ってますが、孫の私からすると優しい婆ちゃんって感じです。
そしてとても信心深い人だったのは覚えています。
私もそれに似たのかと思います。
ちなみに忠輔さんは車の運転が兎に角うまい!
運輸省から表彰されています。
多分戦時も支那ではトラック等の運転をしていたんじゃ?
と思います。
そんな祖父は支那から無事に急に戦後帰ってきたそうです。
(戦後外地で武装化後帰るまで色々あったでしょうし、内地に手紙なんて送れないですからね。福岡に着いたのか?舞鶴なのか?は聴いていません)
けっこうボロボロで帰ってきたと母から聞きました。
母は戦後生まれだから祖母から聞いたのでしょうね。
そんな祖父は戦後にトラックの運搬で奈良にトラックを取りに行く仕事をしたそうです。
帰りは奈良の山道で雪になり、仲間はどんどん滑って事故ります。
しかし、祖父の車の前に仙人が現れたずっと「こっち、こっち」と手招きするそうです。
忠輔さんはその通り運転して一人だけ事故らず宮崎までトラックを乗って帰ってきたそうです。
その時宮崎のかほるさんはずっと手を合わせてたとのことで、それのおかげかな?と忠輔さんは言っていたそうです。
忠輔さんは新人深くないからと自分で言っていたそうです。
亡くなる前に母にそういう話をしたそうです。
優しい忠輔さんが苦しんで亡くなるのは辛いな。と思う訳で、神さんももう少しね……なんて思うのです。
祖父忠輔さんとの思い出はないのですが、宮崎にハーレーで帰った時10号線を走ると不思議と「じいちゃんもこんな風景見たのかな?」と思います。
西都という標識をみると嬉しくなります。
祖父がスーパーカブをやっと買って乗って嬉しそうだったって
母が話てたのを聞くとカブにも乗ってる自分と不思議と血の繋がりって感じる事があります。
それと忠輔さんにハーレー見せたかったって思うのです。
祖母のかほるさんには色々話聞いとけば良かったな。
と最近思います。
宮崎の戦争の話は祖父忠輔さんが戦争に行き無事帰ってきた。という位しか分かりません。
戸籍を見て先祖に思いを馳せるしかないのですが、ふと、先祖の欄を見ると江戸生まれとあります。
宮崎なので西南の役の頃はちょうどの若者。当時の事を聴いてみたくもあります。
飛行機で宮崎まではすぐですが、やっぱりハーレーで帰りたいと思うのです。
10号線を南下して風景を見て帰りたいと思うのです。
そんな気分な3月。
で、どんな感じになるか?
以前間違えてもう一つ同じ名前でブログを作ってしまい、そちらに昨日ブログあげてしまいました……
で、昨日のブログからの続き。
こんな感じになります。
で、ここに鎧が着きます。
ちなみに下から撮っているので良く見えますが、展示等は意識しないと見えないかな…
ちなみに腰回りの草摺は計8枚……
これ全面の3枚しか見えないのよ。
後は太刀によってめくれた陣羽織で少し見えるけど…
でもね、こういう面倒な作業が大事と信じてる。
一つの塊だともう少し楽なんだろうけどね。
これの流れにハーレーの作品があるのでこれ彫れないと多分この先の作品は無理かもしれません……
今はもう9割近く出来ていて、これから籠手の鎖を彫っていきます。
最近睡眠時間が短く昨日久しぶりに夜から今日昼前まで寝ました。
睡眠って大事。
寝てない自慢じゃないよ(笑
それとNYで個展時知り合ったロシア系の友人はやっぱりウクライナ侵攻は反対とのこと。
心配なニュースが続く。
またNYで彼に会いたい。