三月。
ウクライナで戦争が始まり、ニューヨークで知り合ったロシア系の友人はFacebookにウクライ支持を出しているのをみる。
三月は先の大戦の東京大空襲の日が近く、曽祖母が10日に亡くなってるので寂しく思います。
曽祖母も九州と東京の祖父も生まれた時には亡くなっていたので、会った事がありませんが、九州の祖父の写真(多分出征時かな?)を工房の自分の制作机の後ろに飾ってあります。
いつも見ていてくれる様にと。
そんな訳で宮崎の祖父の話。
私が生まれた時祖父忠輔さんにそっくりと言われたと母が言ってましたが、祖父の写真を見る限り祖父は苦味走ったいい男なので似てないかな?(笑
それに忠輔さんは「仏の忠輔さん」と言われるくらいの優しい人で怒られた記憶が無いと母が言ってました。
私はどちらか言うと性格は江戸金子の血と宮崎の祖母の血が強いのかな?
と(笑
忠輔さんのお嫁さんの(祖母ね)かほるさんとは町で見かけた祖父が一目惚れしたとの事で、
結婚前に祖父が祖母の家は大きな旅館でそこに行って断られた話や、色々な人が祖母の両親に忠輔さんの話をして認めてもらったと聞いています。
祖母は気の強い人だと母は言ってますが、孫の私からすると優しい婆ちゃんって感じです。
そしてとても信心深い人だったのは覚えています。
私もそれに似たのかと思います。
ちなみに忠輔さんは車の運転が兎に角うまい!
運輸省から表彰されています。
多分戦時も支那ではトラック等の運転をしていたんじゃ?
と思います。
そんな祖父は支那から無事に急に戦後帰ってきたそうです。
(戦後外地で武装化後帰るまで色々あったでしょうし、内地に手紙なんて送れないですからね。福岡に着いたのか?舞鶴なのか?は聴いていません)
けっこうボロボロで帰ってきたと母から聞きました。
母は戦後生まれだから祖母から聞いたのでしょうね。
そんな祖父は戦後にトラックの運搬で奈良にトラックを取りに行く仕事をしたそうです。
帰りは奈良の山道で雪になり、仲間はどんどん滑って事故ります。
しかし、祖父の車の前に仙人が現れたずっと「こっち、こっち」と手招きするそうです。
忠輔さんはその通り運転して一人だけ事故らず宮崎までトラックを乗って帰ってきたそうです。
その時宮崎のかほるさんはずっと手を合わせてたとのことで、それのおかげかな?と忠輔さんは言っていたそうです。
忠輔さんは新人深くないからと自分で言っていたそうです。
亡くなる前に母にそういう話をしたそうです。
優しい忠輔さんが苦しんで亡くなるのは辛いな。と思う訳で、神さんももう少しね……なんて思うのです。
祖父忠輔さんとの思い出はないのですが、宮崎にハーレーで帰った時10号線を走ると不思議と「じいちゃんもこんな風景見たのかな?」と思います。
西都という標識をみると嬉しくなります。
祖父がスーパーカブをやっと買って乗って嬉しそうだったって
母が話てたのを聞くとカブにも乗ってる自分と不思議と血の繋がりって感じる事があります。
それと忠輔さんにハーレー見せたかったって思うのです。
祖母のかほるさんには色々話聞いとけば良かったな。
と最近思います。
宮崎の戦争の話は祖父忠輔さんが戦争に行き無事帰ってきた。という位しか分かりません。
戸籍を見て先祖に思いを馳せるしかないのですが、ふと、先祖の欄を見ると江戸生まれとあります。
宮崎なので西南の役の頃はちょうどの若者。当時の事を聴いてみたくもあります。
飛行機で宮崎まではすぐですが、やっぱりハーレーで帰りたいと思うのです。
10号線を南下して風景を見て帰りたいと思うのです。
そんな気分な3月。